Some things can't be erased

テープ [DVD]

テープ [DVD]

肝心なところを逃さず見れば途中から見ても何ら支障はないので、もしかしたらもっと短く編集できるのではないか。

おそらく低予算な映画であろうと思うが、低予算イコール限られているという状況が、逆に言えば既にシンプルの真髄を行使させたのかもしれない。アイデアの勝利、そしてエンディングの曲、センスあるなあと唸らされた。シネフィル・イマジカのおかげで目が覚めたよ。

ニールヤング、カートコベインに想うこと

Harvest Moon

Harvest Moon

Havestから20年後にリリースされたアルバム。20年間というのは、ちょうど今の私の年齢と同じ年月である。そう考えるだけでも、軽く身震いがしてしまう。その20年間というのは、ニール・ヤングにとって、おそらく嘗てない程の苦労や困難の時期でもあっただろう。1万人に7人の確率で生まれるという脳性麻痺の子供が、立て続けに2人も誕生した。しかもその間に、妻のペギーさんまで脳の病気で死に至ると宣告されてしまった。(その後奇跡的に回復されたが)

70年代を代表する男だと祭り上げられてすぐ後のことである。それから彼の人生は、想像だにしないことが次々と起こった。自分の運命を呪ったこともあっただろうし、天地をひっくり返されたと感じたこともあったかもしれない。

カート・コベインは「錆ついてしまうより、燃え尽きた方がマシだ」とニールの歌詞を遺書に引用して死んだ。ニルバーナに心酔しきっていた当時15歳くらいだった私は、この言葉に深く共感の念を抱いた。しかし、それは愚か以外のなにものでもなかったと、今になって思う。自虐的になって、自分の頭に銃口を向けている場合ではないのだ。いくらカート・コベインがロックスターの地位に相応しい人間で、そうなってしまうのが運命だったとしても、ニールのように生き続けるべきだったのだ。錆ついてしまう、というのは他でもない自分の責任だ。残されたコートニーや娘フランシスへの愛における責任という点でも、自殺というのは成立する筈もないのだ。それがグランジだったのだから、などというのは言い訳にもならないし、ニールはただのヒッピーおじさんで、グランジのカートには自殺という形で人生を終らせるべきだった、などというのも冗談にすらならない。

ニールはsuch a womanという素晴らしい曲もこのアルバムの中で歌っている。妻のペギーさんへ歌ったものだろう。怒濤の20年間を供に歩んでなお言えるアイラヴユーは、身勝手な自殺で遺書のなかに書くアイラヴユーとは美しさも重みも違う。

カートが死んだのは94年。ハーヴェスト・ムーンに耳を傾けることだって出来たはずである。今更何故そうしなかったのだろうかなどと言っても仕方がないが、やはり悔やまれるばかりである。

Harvest Moonの中で、ニールはこう歌っている「Come a little bit closer, hear what I have to say. Just like children sleepin' we could dream this night away. But there's a full moon risin'. let's go dancin' in the light. We know where the music's playin' let's go out and feel the night.」

そんなに難しいことじゃなかったはずだ。躁鬱病など、誰だってなってるじゃないか。病名に踊らされて、悲劇のヒロインに自分からなって、錆ついていったのはお前じゃないか、とカートに言ってやりたい。少なくとも、ニールの方が苦労したのではないか。

しかしまあ、私が今こうして書いているのは、他でもない自分自身へである。ニールのように歳を取ることは、決して簡単な事ではないだろうが、私はこれからだってニールの曲に耳を傾けて、幾つもの夜をやり過ごすだろう。やり過ごしながら、ハーヴェストムーンの下で、カートが見ることのなかった光景を目にするだろう。そしてそれは、錆ついていくことよりも、燃え尽きることよりも、価値のあるものだと信じている。

Velvet Underground

Velvet Underground

耐えうる要素、というものが結局は一番現実的な希望だ。私にとってのそれは、例えばこんな音楽で、こんな音楽と供に見たあの景色だ。私はひとりで生きていけるんだよ、悲しい事に。ああだけど、そんなのは嘘に決まっている。

自分で蒔いた種は、どこまでも甘えていた。そういうもののツケというのは、確実にくるんだな。私はこれからの三年間を、きっと地獄みたいに過ごすだろう。

友部正人の唄

まったく、凄い人がいたものである。

にんじん

にんじん

ジャケの正面こっちだったのか・・・。(ということは)裏面のこの友部という人の顔が、若い頃の自分の父親に似ている。そんなわけで、少し父親の若い頃を思いながら聴いていた。だけどそれは、あまりうまくいかなかった。他の写真を見ると、全然似ていなかった。

これは73年の作品。調べてみると、未だ彼は現役の人のようだ。和製ボブ・ディランという称号まであるらしい。なるほど、私が痺れたわけである。

誰かさんが誰かさんの鼻を切り落とす、切り落とされた鼻がはなしいと言って泣く、耳はテーブルの上でみみしいと泣く、口は口惜しいと言って泣く、鼻も耳も口もない綺麗な人間たちが右手に茶碗、左手に箸を持って新宿へ行進していくのを見た、今度会った時は、もっともっと凶暴でありますように、、ああなんて素晴らしいんだろうか。彼は「乾杯」という曲の中で、こんな風に歌った。

B面の自動車レースブルースは、ディランを没頭させる。だけどそこから映し出される光景は日本という土地の物だ。夢のカリフォルニア、という曲もある。ここではディランの曲名まで出てくるのだから、そうとうの影響を受けたのだろう。(オフィシャルサイトにはライクアローリングストーンを聴いて曲作りを始めたとあった)

また見つけたよ(紙ジャケット仕様)

また見つけたよ(紙ジャケット仕様)

このぼくをせいいっぱい好きになっておくれ、そして今度の夏が来たらさっさと忘れておくれ、ねえいつまでも信用おけないきみとぼくでいよう、そうさきみは素敵な女の子だよ、健全なお喋りはきみを醜くするだけだよ、そうさきみは素敵な女の子だよ、決して幸せになることなんかない、、、そして焼け付く夏にさっさと死んでしまいなさい(反復より)

すげえ、と痺れる他がない。今日のこの発見は、ここ数ヶ月でいちばん衝撃的だった。彼の他の作品も是非これから探っていきたいと思う。歌っている最中に、すこし笑っちゃったりする仕草がとてもディランに似ている。母に聴いたところ、昔父が相当この人に入れ込んでいたらしい。やはり親子は似るものだなあと思った。

オールダムブラザーズ

ポール・オースターの小説「偶然の音楽」は、もう中盤まで来ているのに、さっさと読めるくせに、面白くない。この後面白くなるのだろうか。タイトル負けという感じがしてしまい、どうにも読み進める気が失せてきた。それはそうと、今日はオールダム兄弟の2枚について。

Anomoanon

Anomoanon

ボニープリンスビリーやパレスいろいろ、と名義の数が無駄に多いウィル・オールダムの兄ネッド・オールダムのバンド。いわゆる、グランジ/オルタナ以後、に当たるらしい。この前に、「宝島」「ジキル博士とハイド氏」などのスコットランドの作家ロバート・ルイス・スティーヴンソンの詩集やマザーグースなどを基にした3つの企画シリーズがあるらしく、バンド名を冠したこのアルバムをデビューアルバムであるという風に考えているのだそう。タイトルもお気に入りのMermaid's Wombとちょっとニールヤングっぽい、しっとりとしたフォークソングのBaby its youが特にすきだ。

All Most Heaven

All Most Heaven

デモをウィルが作り、ほとんどのアレンジをマーフィが担当し、最後にウィルが歌う、という流れで作られたのだそう。1曲目のFall Againとか、モルディピーチズが歌ったらハマるだろうなあという感じで、密かにたまらない。このジャケット(裏ジャケ、中ジャケ含め)を見てから、4曲目のSONG OF ALLを聴くと、そのあまりの格差に誰もが驚いてしまうと思う。こんなおっさんから、こんなに美しい曲がでてくるのか、と。(失礼)4曲入りだけど、濃い。

The Devil and Miss Prym

悪魔とプリン嬢 (角川文庫)

悪魔とプリン嬢 (角川文庫)

「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」「ベロニカは死ぬことにした」に続く「そして七日目には・・・」シリーズの三部冊の小説がこれにて完結するのだそう。3つともそれぞれが扱うテーマは異なり、一週間のうちに人生が変わるという以外の共通点はなく、どれからでも読めるものになっている。今回のものは善と悪という二つの間に起きる永遠の分裂についてだ。

ダビンチが最後の晩餐を描く際に、善を表すキリストと悪を表すユダのモデルを選ぶにあたり、結果的にモデルが同一人物だった、ということからも言えるように、善と悪は誰にも双方が存在する。

すべては抑えるかどうかにかかっていた。そして、何を選ぶかに。
問題はそれだけだった。

それだけだと言えば実際にそれだけ。小さい頃、世の中のあれこれを何も知らないくせに大事な物がなにかははっきりとわかっているような、そういう感覚にこの小説のシンプルさは非常に似ていると思った。だから逆に言うと、悪に徹底的に支配されている人間にとっては訴えるものが弱いのではないかということも感じた。「悪」とはなにか、という時点でもんもんとしている類の人間には特に。

創世記のエヴァとアダムが神との約束を破って果物を口にした後に、神が「人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった」と半ば肯定的に言ったこの台詞の意図だけは、未だによくわからない。